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2014年06月23日林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について
―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー

一般財団法人 林原美術館
岡山県立博物館

一般財団法人 林原美術館(館長:谷一 尚、住所:岡山市北区)と岡山県立博物館(館長:谷名 隆治、住所:岡山市北区)は、林原美術館所蔵の古文書の中に、天文4年(1535)~天正15年(1587)までの約50年間にいたる、47点(全3巻)の歴史的意義の高い文書群「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」を確認しました。平成25年12月から、林原美術館学芸課課長の浅利尚民と岡山県立博物館学芸課主幹の内池英樹とで共同研究をしております。本文書には大別して①長宗我部元親に関するもの、②本能寺の変直前もの、③その他の戦国武将や石谷家の由緒・権利関係などに関するものが含まれており、非常に重要な資料であることがわかりました。今後これらの研究を進めるとともに、幅広く中世の歴史研究に供してその発展に寄与し、この石谷家文書の全容を明らかにするために、資料集を作成する予定です。また、林原美術館、岡山県立博物館、および長宗我部氏ゆかりの地である高知県立歴史民俗資料館で順次数点ずつ公開していく予定です。

【確認にいたった経緯と資料の現状】
本年50周年を迎えた林原美術館は、約1万件の資料を所蔵しており、その内訳は故林原一郎の個人コレクションと岡山藩主池田家伝来の大名道具類とに大別されます。本資料は故林原一郎コレクションに属し、これまで一度も公開及び研究に供されておりません。平成25年9月に、浅利が50周年を記念した当館企画展のための展示資料を選定中に、本資料の重要性を初めて確認しました。その後、当館が資料調査活動のために休館した平成25年12月から、内池氏と共同研究を開始し現在も継続中です。箱蓋表部には「石谷 御文書 三巻」と墨書されており、多くの書状が石谷家の人物に宛てられた書状で、石谷家に由来した文書を後年にだれかがまとめたものであると考えられます。そのため資料名としては「石谷家文書」といたしました。

【石谷家の概略】
「石谷家」とは、室町幕府の奉公衆 (ほうこうしゅう・将軍の側近)で、13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)に仕えた美濃国方県郡(かたがたぐん)石谷(現、岐阜市石谷)に本領を有する一族です。
石谷光政(いしがいみつまさ)(後に出家して空然(くうねん)と号す、生没年不詳)は、足利義輝の側近でしたが、永禄8(1565)年に、義輝が暗殺された後、娘が嫁いでいた長宗我部元親のところに身を寄せていました。養子である石谷頼辰(いしがいよりとき)(生年不詳-1586)は明智光秀の重臣である斎藤利三の実兄で、石谷光政の養子となっていることから、元親とは義理の兄弟になります。義輝暗殺後は、時期は不明ですが実弟斎藤利三とともに明智光秀の家臣となっていたようです。
天正10年(1582)6月2日に発生した本能寺の変の直後に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が戦った山崎の戦いの後は、長宗我部元親のところに身を寄せ、義父光政とともに元親を支えました。なお頼辰の娘は、元親嫡男の長宗我部信親(のぶちか)の妻となっています。頼辰は、天正14年(1586)12月の戸次川(へつぎがわ)の戦い(現、大分市)で島津軍と戦い、激戦の末に娘婿の信親と共に戦死しました。

【石谷家文書の主な内容】

(1)長宗我部元親に関するもの
①長宗我部元親書状(天正6年(1578) 12月16日) 第2巻所収
長宗我部元親が石谷頼辰に宛てた書状。文中には、長宗我部元親嫡男が、信長より「信」の字を拝領したことが明記されていますが、これまでは『土佐国蠹簡集(とかんしゅう)』(土佐藩士の奥宮正明(1726没)がまとめた古文書集)に所収されている「織田信長書状写」などでしかこの記述は確認できておらず、一次史料としては初めての物となります。また、斎藤利三、石谷頼辰が、長宗我部元親と緊密に連携をしていたことも確認できます。

②長宗我部元親書状(天正15年(1587)1月22日) 第2巻所収
天正14年(1586)12月12日、豊臣軍と島津軍が衝突した戸次川の戦いで、長宗我部元親の嫡男信親と石谷頼辰は戦死しました。そのことを小笠原又六へ伝えている書状で、落胆している元親の心情が伝わります。なお同日付で、斎藤利三の三男の利宗(平十郎)に宛てた、ほぼ同内容の書状も当石谷家文書の中に存在しております。

長宗我部元親の書状は後述のものとあわせて計4通含まれており、これ以外にも書状の内容に元親が関わるものがあるため、今後の長宗我部氏研究にたいへん役立つ資料です。

(2)本能寺の変直前に関するもの
①斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日) 第2巻所収
斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した書状。利三が書いた書状は、現在数通しか残されていません。天正3年(1575)頃、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。元親は承知せず、それを諫めるために利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと『長宗我部元親記』(寛永8年(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や『南海通記』(享保2年(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にはあります。本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したもので、信長と元親との対立状況がわかるとともに、利三が元親に働きかけを行った確証となる史料です。

②長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べています。5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。

この2通の書状のやりとりで、本能寺の変直前の斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動が明らかになりました。今後は、本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状として本資料が取り上げられ、さらに研究が進んでいくと思われます。

(3)その他の戦国武将や石谷家の由緒・権利に関するもの
①細川信良書状(天正12年(1584)4月2日) 第1巻所収
石谷光政・頼辰に、小牧・長久手の戦いへの長宗我部元親の協力を依頼しています。

②三好長慶書状(天文18~永禄7年(1549~1564)9月28日) 第3巻所収
京淀当座中に対して、石谷分の塩公事を差し出すように命じています。

③室町幕府奉行人連署奉書(永禄5年(1562)3月10日)  第3巻所収
石谷頼辰知行分の木幡口関代官職について、赤塚大和守が訴訟に及びましたが改易に処せられたことがわかります。

これらの書状により、あまり知られていなかった石谷家の活動の実態がわかってきます。

【資料集の出版】
来年の前半をめどに、石谷家文書全47点の写真と読み起こし文と解説を付した資料集を、吉川弘文館より刊行する予定です。

【今後の展示スケジュール】
(1)林原美術館(岡山県岡山市北区丸の内2-7-15 ℡086-223-1733)
開館50周年記念特別展「武士のダンディズム」(平成26年7月19日~9月15日)で6点。
開館50周年記念特別展「林原美術館の名宝 第一部 絵画・書跡・能装束」(仮)(平成26年9月30日~11月16日)で6点。

(2)高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市岡豊町八幡1099-1 ℡088-862-2211)
特別展「長宗我部氏と宇喜多氏」(平成26年10月11日~12月7日)で4点。

(3)岡山県立博物館(岡山県岡山市北区後楽園1-5 ℡086-272-1149)
特別展「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」(平成27年1月16日~2月15日)で8点。

以上

●関係略年表.pdf


▲ 石谷家文書外観(箱、3巻の外観)


▲ (1)-① 長宗我部元親書状(石谷頼辰宛) 天正6年(1578)12月16日


▲ (1)-② 長宗我部元親書状(小笠原又六宛) 天正15年(1587)1月22日


▲ (2)-① 斎藤利三書状(空然〈石谷光政〉宛) 天正10年(1582)1月11日


▲ (2)-② 長宗我部元親書状(斎藤利三宛) 天正10年(1582)5月21日

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