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2023.12.20

意外な分野でも活かされる糖質の力トレハロースを用いた埋蔵文化財の保存処理

主に食品や医薬品、化粧品の分野において、その優れた機能性が活かされてきたトレハロース。今回はこれらとは少し趣の異なる、文化財保存という分野でのトレハロースの活躍についてご紹介します。
貴重な歴史資料を未来へ残していくための手法として、2008年にトレハロースを用いた保存処理方法が開発され、大きな成果を上げています。
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土中・水中に眠る貴重な木製遺物たち

土の中や海底の遺跡から発掘される船や器、農具といった古い時代の木製遺物。
通常なら、土や水の中に埋まった木製品は年月の経過とともに微生物に分解されるなどして朽ちてしまうはずですが、水分が多く酸素の少ない環境下では微生物の活動が止まることなどにより、現在まで何百年、時には千年を超えて残存する場合があります。
しかし、こうした遺物は形をとどめてはいるものの、木質成分が分解・流失しており、その代わり過剰に水分を吸っています。この状態で発掘後不用意に乾燥させてしまうと激しく収縮し、形は損なわれてしまいます。

そこで世界各国で木製遺物(水浸出土木製品)の保存方法が研究されてきました。これまで世界的に主流となってきたのは、ポリエチレングリコール(PEG)溶液を浸み込ませて補強する「ポリエチレングリコール含浸処理法」(以下、「PEG法」)でした。しかし、このPEG法は含浸に時間がかかる、場合によっては含浸処理中に遺物が変形する、高温多湿の環境では処理後にPEGが浸み出してしまう、といった問題を抱えていました。
伊藤幸司教授(1995年から約30年間、糖類を用いた含浸処理法の研究に携わっている)(写真提供:伊藤幸司教授)
▲伊藤幸司教授(1995年から約30年間、糖類を用いた含浸処理法の研究に携わっている)
(写真提供:伊藤幸司教授)
でした。しかし、このPEG法は含浸に時間がかかる、場合によっては含浸処理中に遺物が変形する、高温多湿の環境では処理後にPEGが浸み出してしまう、といった問題を抱えていました。

こうした問題を改善する方法が模索される中、糖類を用いる含浸処理法が奈良県立橿原考古学研究所(当時。現・奈良大学 学長)の今津節生氏によって研究されていました。
これに興味をもち、研究に加わったのが、今回お話を伺った東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センターの伊藤幸司教授です。

糖類を用いる処理方法で、従来式の問題を改善

当時の伊藤さんは大阪市文化財協会に所属し、埋蔵文化財の保存処理に関する技術を研究していました。今津さんと、研究に加わった伊藤さんがまず取り組んだのは、糖アルコールの一種であるラクチトールを含浸させる方法です。

糖類を使った含浸処理は、遺物を糖の水溶液に浸したのち、液を加熱して糖の濃度を上げながら木の組織内部まで含浸させます。充分に糖を含浸させたのち、遺物を糖の水溶液から取り出すと浸み込んでいる糖の水溶液の温度が下がることで過飽和状態となり、固化します。さらに遺物に風を当てて水分を蒸発させて残留している糖の水溶液を濃縮し、固化させます。

糖類含浸処理法の概要

分子量が小さく浸透しやすいラクチトールは、PEGに代わるものとして非常に有効でしたが、これもまた完全ではありませんでした。

「ラクチトールは、うまくやれば非常に安定的な保存状態を保てます。しかし、うまくやるというのが問題で、生成させる結晶の種類が悪いと遺物を壊してしまう、ということが起こります」と、伊藤さんは話します。

ラクチトールの結晶には4種類の結晶形があり、水溶液の濃度・温度など結晶化させる際の条件によって生成される形が変わってきます。4種の結晶形はそれぞれ性質が異なるため、保存処理を成功させるには、保存処理に適した形の結晶を確実に作ることが重要となります。しかしそのために、含浸する最終濃度や結晶化させる温度などを細かく管理することが難しく、熟練者でなければ失敗することも多かったのです。

トレハロースの持つさまざまな特性が要求にマッチ

トレハロースを用いる方法の研究が始まったのは、2008年のことです。
実はトレハロースは、もともと今津さんが糖類含浸処理法の研究を始めた1990年代初頭から、主材の候補に挙がっていました。しかし当時トレハロースは非常に高価であったために、代替品としてラクチトールが選択されていたのでした。
それが1995年、ナガセヴィータ(Nagase Viita)がトレハロースの工業生産に成功したことで、価格は従来の100分の1ほどになり、入手しやすくなりました。また、その後ラクチトールの供給が不安定になったこともあり、再びトレハロースに光が当たったのです。
水への溶解度の比較(砂糖とトレハロース)とトレハロース水溶液の温度低下による結晶生成の特徴
「トレハロースを使ってみるとすぐに、ラクチトールよりも圧倒的に扱いやすいことがわかりました」と、そのときの印象を話す伊藤さん。
ラクチトールに比べ耐酸性や耐熱性に優れるトレハロースは、酸性化した高温の含浸水溶液中でも分解されず安定して存在します。また、トレハロースは水溶液の温度上昇による溶解度の上がり幅が大きいので、温度を下げることによって得られる結晶量が多いこともメリットでした。
トレハロースの結晶は吸湿性が非常に低く、日本をはじめとする高温多湿の地域でも、保存処理後の保管が容易になりました。

トレハロースで保存処理を行った木鉄複合材の鉄部分▲トレハロースで保存処理を行った木鉄複合材の鉄部分

また伊藤さんは「理屈が簡単ということは、それだけ自由度が高く、応用が効きやすいということ。私にとっては、これがトレハロース含浸処理法の一番の魅力でした」と話します。
トレハロース含浸処理法は、劣化の度合いが少ないものに対しては低濃度で処理を終えることも可能です。また布など本来の色を残したい遺物に対しては、結晶よりも透明度の高い「ガラス」状態で固めるなど、遺物の状態に合わせて固化する方法を操作することができます。
こうした利点により、良好に保存できる遺物が布や縄、漆器、といった繊細な素材にまで大幅に広がりました。
また釘などが付属した木鉄複合材に対しては、PEG法では保存処理後に鉄が腐食して周囲の木部も傷んでしまいますが、トレハロース含浸処理法はその特性により鉄の腐食も防ぎます。

これらの研究の過程では随時、ナガセヴィータの社員もトレハロースの特性に精通した専門家として、結晶化/ガラス化のメカニズムなどについて解説・アドバイスを行いました。

ナガセヴィータ藤崎研究所(岡山市中区)とナガセヴィータが製造するトレハロース▲当社の研究所(岡山市中区)とトレハロース(製品名:トレハ®) ※取材当時は旧社名・株式会社林原

元寇沈船隔壁板の保存処理プロジェクト

長崎県松浦市「鷹島」の所在地

2019年より伊藤さんたち研究チームは、実際に海底から発掘された大型の水浸出土木製品の保存処理作業に着手しました。

その出土品とは、「元寇」の沈没船の隔壁板(船内の仕切り板)です。
元寇は、鎌倉時代、1274年・1281年の2度にわたり元軍の船隊が日本に攻め込んできたという歴史上の出来事です。長崎県松浦市、伊万里湾の鷹島はその古戦場であり、付近の海底には元寇の遺物が多く沈んでいます。

隔壁板は長さ約5.6m、重さ364kgほどの大きな木板で、2002年に海から引き揚げられたのち、17年間にわたり水に浸けた状態で松浦市立埋蔵文化財センターにて保管されていました。

伊藤さんは、まずこの隔壁板が入る大型の含浸槽を製作しました。これをトレハロース水溶液で満たして隔壁板を浸し、60~80℃程度に温めながら2年ほどかけてゆっくりとトレハロースを浸み込ませていきました。トレハロースの使用により従来の方法と比べて半分以下の期間で含浸処理を終えることができました。2021年3月に隔壁板を引き上げ、風を当てて数ヶ月間固化・乾燥させた後、表面処理を施して保存作業が完了となりました。2年間継続して作業を行ったのは、松浦市立埋蔵文化財センターの安木由美さんです。
現在、その隔壁板は同センターの作業場に保管されており、誰でも見学できます。「エアコンもなにもない、温度や湿度の変化の激しい環境ですが、今のところ保存状態に大きな問題はありません」ということです。

当時の含浸処理の様子(左)と、保存処理完了後の隔壁板(右)(写真提供:松浦市教育委員会)▲当時の含浸処理の様子(左)と、保存処理完了後の隔壁板(右)(写真提供:松浦市教育委員会)

保存処理法は低コストで平易な方法であることが大切

含浸処理中は、糖の水溶液をヒーターで長期間加熱し続けるため、膨大なコストがかかります。費用の面だけでなく、環境への負荷も無視できない問題です。また世界には、電力や燃料の供給が不安定な国・地域も多く、そうした場所でもできるだけ容易に保存処理できる方法が求められています。
従って、今回この隔壁板の保存処理をおこなうにあたっては、いかにコスト・環境負荷をかけずに良好な結果を出すか、という点も大きなテーマでした。

松浦市立埋蔵文化財センターの屋外に設置した太陽熱集熱パネル(写真提供:伊藤幸司教授)▲松浦市立埋蔵文化財センターの屋外に設置した太陽熱集熱パネル(写真提供:伊藤幸司教授)

電気エネルギーの使用を抑えるために、伊藤さんは昔ながらの太陽熱温水器にヒントを得て、真空管式の太陽熱集熱装置の使用を考え、夜間や雨天時を考慮して電気ヒーターとのハイブリッド式を採用しました。さらに、寒い時期にも熱効率を高められるよう、蓄熱槽や含浸槽は断熱材でしっかりと覆いました。
こうした工夫の結果、約2年間にわたる含浸処理中、電気ヒーターが稼働した時間は全体の50%以下となりました。つまり、半分以上の時間は電気に頼らず、自然のエネルギーで必要な温度を保つことが可能であったということです。
伊藤さんは他にも、大掛かりな含浸槽を使わず、トレハロース水溶液を対象物に滴下して含浸させる方法や、使用済みの水溶液を再生・再利用する方法なども研究しています。身の回りのあらゆる事象からアイデアを得られるよう常にアンテナを張りめぐらし、より低コストで、より環境にやさしく、より平易な保存処理法を追求し続けています。

モンゴルで開催された講演会の様子(写真提供:伊藤幸司教授)▲モンゴルで開催された講演会の様子(写真提供:伊藤幸司教授)

また「トレハロース含浸処理法研究会」を主宰し、定例会では最新の研究の状況から失敗事例まで広く情報共有しています。これにはナガセヴィータ社員も参加しており、貴重な情報交換の場となっています。伊藤さんは、トレハロースによる保存処理技術をさらに広く伝えるために海外への技術移転や研究協力も行っています。

伊藤さんは話します。
「保存処理は特殊な技術を要するものであってはいけないのです。どこでも誰にでもやりやすい、失敗の少ない方法を考え出して、世界中に眠っている文化財をできる限り残していきたい。それが私の研究の目的です」。

貴重な先人の遺物を未来に残していくことは、世界共通のテーマです。ナガセヴィータも引き続き、トレハロースをはじめとする機能性素材の提供を通じて研究を支え、文化財保存の分野に貢献していきたいと考えています。

トレハロースによる文化財保存技術は、さらに活躍の場を広げています。
松浦市立埋蔵文化財センターでは、2022年10月に鷹島海底遺跡から引き揚げられた元寇沈船の「一石型木製いかり」の保存処理が、2025年秋の完了を目指して進められています。
さらに新潟県長岡市では、幕末に江戸幕府が所有していた外輪式蒸気船「順動丸」の鉄製シャフト(長岡市指定文化財)の保存処理がトレハロースを用いて、伊藤幸司教授指導のもとに行われています。海底から引き揚げられた大型金属製品の保存処理にトレハロース含浸処理法が採用されたのは初めてのことであり、大きな成果が期待されます。

伊藤幸司教授は、UNESCOが主催するワークショップで2023年10月27日~28日の2日間、トレハロース含浸処理法の技術指導を行なわれました。詳しくは、東北芸術工科大学のプレスリリースをご覧ください。

わたしたちが注目するサステナブル・ポイントトレハロースを用いた埋蔵文化財の保存処理

  • ●保存処理の自由度が高く保存できる遺物の対象が広がり、より多くの埋蔵文化財を未来へ残すことに貢献
  • ●自然界にも存在するトレハロースを使用することで、安心・安全に保存処理が行える
  • ●従来の保存処理法の課題であった処理期間の長さを解消し、電気エネルギーの使用を低減
  • ●トレハロースが生成する結晶やガラスは安定性が高く、保存処理後の遺物の劣化を防ぎ、収蔵や展示の負担とコストを軽減